こころを元気にするために!〜30代で教師を辞めました。〜

約10年の教師生活に終止符を打ち、うつ病と闘いながら「こころを元気にする」ための記事を中心に書いてまいります。今の人生のテーマは「こころの元気」と「Do what you want!(やりたいことをやる!)」です!

教師を辞めた理由①

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私は小学校6年生の時に、将来の夢を決めました。「学校の先生」です。小学校6年生の時の担任の先生の影響です。

 

私は、小4まで別の小学校に通っていましたが、父親が脱サラして、自営業を始めたため社宅を出ていかなければならず、町内の別の学校へ転校することとなりました。

 

それまでの私は「泣き虫」で「いじめられた経験」もあり、「母親の教育の影響」(これ、とても大事な話なので別の機会に書きます。)もあり、自分に自信がありませんでした。

 

しかし、転校して小規模校(学年1クラス)へ行き、のんびりした雰囲気の中での生活が始まりました。割とすぐに溶け込め、友達にも恵まれ、ほどなくして学級委員長にも選ばれました。6年生に進級し、児童会長に選出されました。結局、お勉強がそれなりに出来たことと、小学校のサッカークラブのキャプテンをやっていたことなどが影響したのかなと思います。(決して外見で選ばれたわけではない、、、。)

 

6年生の時の担任の先生が、おもしろい先生でよく遊んでくれました。そして、責任ある仕事をいろいろ任せてくれました。みんなの前で黒板に字を書いた時、書き順間違えたか、漢字を間違えたかして、「それでも児童会長か?エリートなんだぞ!」などと言われ、赤っ恥を書かされたりもしました。今思えばとんでもないエリート思考な発言でいかがなものかと思いますが(笑)でも、その先生は努力を認めてくれ、個性を認めてくれました。おかげでセルフエスティーム(自尊心、自己肯定感)が飛躍的に高まり、それまで自信のなかった自分が大きく変化しました。

 

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 【芽が出たよ!】

 

そのことがきっかけで、「自分も子どもの努力や個性を認め、自信をつけさせ、前向きに生きる支援をしたい。」と子どもながらに思いました。これが教師を目指す動機となりました。

 

教師になるにはどうやら大学に行き、教育学部で学び、免許を取らなければならないと分かりました。それからというものとにかく勉強を頑張らなくてはいけないと分かり、それまでも頑張っていましたが、目標が明確になったことで、より努力を重ねました。

 

中学校に入ってからは200人以上いる中で、ほぼほぼ10位以内の成績を維持しました。高校には首席で入ることができ、入学式では新入生代表で挨拶をしました。

 

高校に入ってからは、担任の先生が英語の先生ということで、毎朝英語の単語テスト。自転車で40分の通学時間でしたが、毎朝単語帳を読みながら自転車を運転するという危険行為を3年間続けました。今思えばポケモンGOより危険だったように思います。十数年前の話なのでお許しください。

 

おかげで英語はバリバリできるようになりました。一方、数学には全くついていけず、分からないから楽しくない、楽しくないから眠くなる、授業を聞かないから余計についていけなくなるという悪循環。しかも数学の先生が生徒指導の先生で、まぁ絵に描いたような「鬼軍曹」でした。

 

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【こんな甘っちょろい鬼ではありません。】

 

友人からは「お前、よくK先生の授業で寝れるな。」と言われていました。この前、クラスメイトに再開した時もその話をされました。あの先生の授業であれだけ寝てしまったのも、おそらく歴史上、私だけではないでしょうか。1つ情けないエピソードをお話ししますと、高2のとき、頑張って頑張って意識を保とうとしていましたが、当然目をつけられていた私は、ウトウトしているのを発見され、

「おい!月宮!!眠たいんかーー!!!」

『いえ!!眠たくありませんっ!!』

「顔洗ってこい!!!」

『いえ!!大丈夫ですっ!!!』

「お前!教科書持って廊下出ろー!!」

『・・・はい。』(廊下に出る)

「そこで正座して授業受けろー!!!!」

『はい・・・。』

 

17歳にもなって、廊下で授業を受けるという大変貴重な機会を授けていただきました。青春のメモリーです。

 

 

話はそれましたが、大学進学の条件は「国立大学以外認めない。」でした。うちは貧乏で、高校受験の時も滑り止めは受けさせてもらえませんでした。結果的に思わぬところで首席で入学できたのでよかったのですが。(もちろん、合格はできるだろうと進路指導はされていましたが、保険がないのはプレッシャーでした。)

というわけで、もちろん大学受験も滑り止めなし!という方針だったのですが、頼み込んでひとつだけ私学を受けさせてもらいました。「受かっても行かすお金ないよ。」と言われてたので、練習受験みたいなもんでした。「とかなんとか言って、いざとなったらなんとかなるんじゃないの??」と思っていた節もありますが、どうも本当に無理だったみたいです。

 

そして、センター試験を大失敗しました。目標点よりたしか80点近く下だったように思います。狙っていた大学を諦め、二次試験で挽回できそうで、且つ国立の教育学部、、、ということで選択肢は本当に限られていました。ある日、進路室で女友達が「月宮くん、これいいんやない?」と紹介してくれた大学、結局そこを受け、受かりました。ちなみにその時、その女友達のことが好きでした(笑)今でも繋がりがある数少ない高校時代の友人の一人です。

 

というわけで無事、入学。新たな友人にも恵まれ、軽音楽部に入り、酒の洗礼を受け、部長にも就任し、大学生活を満喫しました。

 

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【大学時代に買った1本目はフェンダージャパンのテレキャスター(実物とは違う写真ですがこんな感じのやつです。)】 

 

※2本目はフェンダーメキシコのストラトキャスター

 

勉強の方はというと、小6の時の恩師の言葉『大学は遊びと勉強を半々でやれ!』を忠実に守ろうとするあまり、遊びの方(部活)に力を入れすぎてしまい、ゼミに入るまでは割と不真面目でした。とはいえ代返なんて姑息な手は使ったことなかったですよ。

 

その後は、再び勉強に熱が入り、割とバリバリやりました。ライブの打ち上げは必ず始発までだったので、そういう日は午前中の授業に出れないこともありましたが(^_^;)それでも勉強8の遊び2くらいでしたかね。入学して早々に彼女ができて卒業前まで付き合っていたので、その時間も楽しみつつ。

 

教師になりたい!と思ってから大学2回生頃までは小学校教員を目指しておりましたが、専攻が英語教育だったこともあり、教授から中学校を強く勧められたので主免実習は中学校、副免を小学校にしました。どちらも楽しかったですが、中学校の方が楽しく感じたため、志望を変更し、中学校教員を目指すことにしました。しかしながら、ここへ来て「本当に教師になりたいのか?」と自問自答が始まってしまい、教員採用試験直前まで迷ってしまいました。結果、受験を決めたのは試験の1ヶ月半前だったでしょうか。願書もギリギリで出した記憶があります。ただそこからはバイトもしながら1日最低8時間は勉強しました。他に予定がなければ12時間くらいはしていました。もともと短期集中の方が得意だったので、割とはかどりました。

 

いわゆる「大量採用時代」の少し前だったのですが、倍率は約9倍くらいでした。もっとすごいかと思いましたが、意外と低くてよかったです。

 

採用試験では、一次の面接で試験管が「えー、みなさん、必死で自己PRを考えて来たと思いますが、忘れてください。今から、私たちが生徒役をしますので、4月に来た新任教師が生徒に対して自己紹介をするという設定で自己PRを入れてください。」という無茶振りをしてきました。変な質問が多いとの噂でしたので、期を洗うような質問が来るとは思っていました。私は面接部屋へ呼ばれるのを廊下で待っている時、なぜか「あ、チャンスあったら歌おうかな?」と思っていました。用意した面接対策の中にはもちろんそんな案はなかったのですが、なんとなく思いつきました。そしたら、上述の無茶振り。「あ、ここだ。」と思いました。歌いました。趣味は音楽で作詞作曲やギター、歌うことが好きです!という流れから歌いました。これが功を奏したのか、面接官の手元は慌ただしかったのを覚えています。その後の真面目な質問にも割としっかり答えられました。結果、一次を通過。二次の筆記や、英語のディスカッション等も無事なんとか乗り越え、最終の三次試験も無難に終え、結果的に受かりました。

 

母親に電話で報告したら、泣いて喜んでいました。小さい頃からの夢が叶ったので親としては嬉しかったのでしょう。

 

 

そして、夢に見た教育現場へと突入するのです。

 

 

続きは次回にします。

 

長文お読みいただきありがとうございました。

 

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